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 闘病記録〜発病から骨髄移植〜

 

発病まで

月日

検査や症状

私の記憶

7月初め

クレペリン検査で右手麻痺、視界がゆがむなどの症状。中央病院でMR検査、異常なし。

この時は、血液検査はやらなかったのでそのまま帰宅。

自転車で帰宅したのがすごかった。

 

朝起きると唇にかさぶたが出来始める。白血病の進行症状なのだが、全く気がつかない。

学校が終わったあと、夜6時から10時までコンビニのバイトをやっていた。

気にせずバイトに励む。

朝はかさぶた落しが日課になっていた。

別に気にはしていなかった。

8月初め

アザが足に出来始める。白血病の進行症状ですが、多くなった芽球(癌細胞)は圧迫

されるとすぐ内出血してしまいます。なので、少しの衝撃(圧迫)をしただけでも青アザ

が出来てしまうのです。痛みは全くありません。身の覚えのないアザは注意です。

バイトの時、よっかかっていた所がアザになってしまう。この時はきずかない。

 

口の中に血豆が出来るようになる。舌で触るとすぐ潰れる。舌があたるだけでも出血してしまうぐらい、白血病が進行している状態です。

毎日、血を見ていたせいか、あまり気にはとめなかった。バイトに励む。

 

朝起きると、口の中が血だらけになっていた。うがいをすると、水が赤い。

白血病の後期症状です。穴と言う穴から出血してしまう状態でした。

歯茎からだらだらと血が出ていました。痛い―傷―赤い液=血というプロセスがあって

血と認識していたので、まったく痛みがなくただ出てくるだけなので、血とは認識して

いませんでしたし、パニックにもなりませんでした。もしコケて、頭を打っていたらと

思うと、ぞっとします。

まったく痛くないため、気にとめなかった。バイトの先輩に病院へ行くように進められるが、大げさと思いバイトに励む。

 

夏休みに入り、バイトも朝5時から10時と夜6時から10時の11時間の

週3日に増やす。

母が足の治療を始めるため入院する。自転車で南浦和まで、1週間に一回通う。

バイト中、友達に泊まりの誘いがあった。

 

荒井家の座椅子に血痕を残す。

謝罪します。すみませんでした。

 

親に病院へ行くように言われるが、泊まりの約束をしていたので、泊まりを選ぶ。

母は、病院へ行けって行ったけど、泊まりに行ってしまったこと。

とても危険な状態でした。

さすがにおかしいと思い始めた。朝と夜によく、歯茎から血が出るから・・・。

 

翌日、帰宅するとき、左足に激痛が走る。靴が履けなくなっていた。片足で帰った。

白血病の後期症状で、関節痛です。

山田家のソファーに血痕を残す。

本当にごめんなさい。謝罪します。

8月20日

朝起きると、左足に激痛が走る。左足が地面につけられず、杖を使い立つ。

歯茎の出血がひどかったので、歯医者行くか病院へ行くか迷う。朝早いので、病院へ行く。

病院の先生が、唖然としていた。私は足を見せに行ったのに、先生はすぐに血液検査と

点滴を入れて子供部屋を急遽とり、入院をすることになった。

採血の結果、白血球15万 血小板2万以下

この時も、杖を持って自転車で病院へいった。

今思うと、気合はいっているな〜て思う。

 

血液検査と血の止まり具合を調べる検査をやった。血は止まらなかったので圧迫して止めた。この夜、両親は先生に「なんでこんなになるまでほっといたんですか!」と怒られ、

病名を告知される。あと10日遅かったら私の命がなかったことやこれからの治療の

辛さなども言われた。先生が泣いたそうだ。

 私には、あとから聞いた話です。点滴が両手に4本刺してあって、ベットから動けなかったが、まさか入院するとは思わなかった。転院する事を決める。

明日は登校日だったのに、とがっかりしたのを覚えています。

まさか入院になるとは思っていなかった。白血球が高くて血小板が低いと言われ、母に「白血病じゃないのと」冗談半分で聞くと、「そんなわけないじゃん」と言って、部屋を出てってしまった。この時、親は告知をうけていた。

 

入院そして1回目の治療

 

8月21日

埼玉県立ガンセンターへ転院。この時自分が癌だった事を知る。

初めての骨髄穿刺をやる。穿刺針が抜けなくなり、3人ぐらいに抑えられてやった。

胸のあたりを触られるだけで、激痛が走る。その上、先生が針を出したのでぞっとする

「まさかここに刺す気か?」信じられないくらいで、麻酔もシャレにならないくらいに

激痛が走った。正直、麻酔が効いているのかどうかすらわからなかった。

例えるなら、「ナイフで胸に刺されてグリグリさせ、抜けなくなった」って感じだ。

おそらくこの痛みこそ、人生最大の苦痛だと私は思う。

針が引けないので、生検をやった結果芽球が17万4000

(採血の結果、白血球17万4000 ヘモグロビン8,0 血小板12000)

本気で泣いた。3人ぐらいに抑えられて。(最初のマルク)

 

 

血液科の先生が部屋に入ってきて、告知をうける。

治療をするか、家に帰るかの選択を聞かれる。

治療を選択し、IVH(静脈カテーテル)を右胸に入れられた。

両親にもって、後1年と告知をうけたそうだ。私はあとから聞いた。

急に言われてもわからなかったので、治療の方を選んでいました。家に帰れる状態じゃないと思うし。

 

この日の夜、肩からの出血が止まらなかった。血小板が2万を切っていたので、血がだらだらでていた。主治医の佐竹先生も金子先生も帰ってしまい、大慌て!

タオルケットも血で染まり、時間だけがすぎていった。小林先生がきて、IVHを抜き、麻酔なしで合計6針縫われるものの、糸が切れて失敗。肩に重りを乗っけて、圧迫する事で血が止まる。担当看護婦の岩村さんいわく、「もうだめかと思ったよ」と言う事だ。この夜から数日、夢を見ていた。砂漠みたいなところで、私が黒い軍団に追われている夢をよくみた。

この時はやばかった。小林先生も焦ったらしく、最初の3針を縫って、糸を縛るとき力を入れすぎて切るし、また3針縫ったのに、又切れちゃうし、最後には「渾身の力をこめた」なんて言って、圧迫だもん。麻酔なしの6針はどうなったんだ?

8月後半

学校の先生と親友の佐久間氏が見舞いにきた。意識がもうろうとしていて

来たのは覚えているが、「うぅ〜」しか言えなかった。

点滴針が両腕に6本、点滴や輸血が9本ぶら下がっていた。

まさに、虫の息である。

佐久間氏いわく、ダメかもと!

 

IVHを入れなおし、抗がん剤が入る(白)。薬とイソジンガ-グルが始まる。

岩村さんがイソジン表を作ってくれた。意識を保つのに必死だった。

50音すら思い出せないほど、ずっと「あ、い、う、え、お」って言っていたのを

おぼえている。

 気がついたら、鼻に管が入っていた。自分で鼻からとった。

イソジンはとても嫌いだった。

ファンキゾンが強烈だった。

飲むと同時に嘔吐した。

9月前半

髪の毛が抜け始める。髪を触るたび、ぽろぽろと落ちてくる。床屋に行き(院内)坊主にする。けど、短い髪の毛が落ちてくる。結構へこんだ。

抗がん剤の威力はすごがったし、何度も嘔吐した。けど、効いただけ良かったのかも知れない。

 

クラスメートの三森氏から手紙がきた。栄養失調だと聞いていたらしく、私は、白血病であると返事を返してしまった。私は三森氏がいじめられている時、完全に無視をしてしまった。助けを求めていたのに、友達だと思っていた人に裏切られた三森氏は、私を

許してくれくれないだろうと思っていたので、正直、なぜ私に手紙が来たのか

信じられなかった事を覚えている。

友達を見て見ぬフリをしてしまった事、私は忘れない。

この時には、正直気が抜けすぎてて、頭の中がもうマイナス思考で、魂が抜けた状態だった。この時が落ちるとこまで落ちたとこだと思う。

 

返事が返ってきた。「50%て言われても、一生懸命がんばろうよ」と書いてあった。なかなか言えそうでいえない事だと思うし、がんばれて言ってくれる人はいなかったから、とても救われた気がしました。

1人でも悲しんでくれる人がいるかぎり、私は戦おうと思いました。

三森氏の手紙、来るとは思っても見なかったので、うれしかった。

三森氏には感謝しています。

ありがとうございました!

 

主治医の佐竹先生からある本を薦められる。

「君と白血病」と言う本だった。この本で、この先やるべき治療を知ったし

基礎知識はつきました。今でも役に立っています。

私が活字で読んだ最高記録が「遠い海からきたCoo」63ページ、「君と白血病」は206ページ。キビシ〜!

 

熱が出る。39、5度を超すと採血をやる。

採血は2日に一回だった。

輸血も始まる。気持ちは悪くはならなかった。

イソジンをサボったせいか?

抗がん剤を入れて1週間ぐらいで髪が抜け、2週間で熱が出る。おかげで熱に強くなった気がする。

9月中半

一時退院が許される3日間。

母は、毎日2時間かけて病院に通ってくる。泊り込みなんて日もあった。

父は日曜日に来てくれる。IVHを入れていると、肩が重くなる。

シャバの空気はやっぱりうまい!

1ヶ月たまったジャンプとサンデーを読みあさる。

 

骨髄穿刺と腰椎穿刺をやる。腰椎穿刺とは、芽球が脳へ行かせないために、脊髄から

薬を入れる治療です。芽球が脳へ行ってしまうと中枢神経白血病になってしまいます。

私は、首まできていたらしいのでギリギリでした。

1回目ほどではなかったが、1回目の痛みのトラウマを刻んだおかげで、針をさす瞬間まで恐かった。

 

IVHの糸を抜きカテーテルを抜いた。肩が軽くなるような感じがした。

肩の荷が降りるとはこの事か・・・?(違うけど)

すぐに外れないようにするため カテーテルを縫うのではずす時は、

糸を切ってもらいます。

IV13って言われていたので、聞いてみると、私は身長が165cmなので、

胸の静脈から13cm入っていると聞いた。

 

とりあえず退院が許される。

1ヶ月治療し、1ヶ月休養 そしてまた1ヶ月の治療この繰り返しを

化学療法は5回続けます。抗がん剤がそれぞれ変わり、(白、赤、青、黄、白)の順

抗がん剤は人それぞれで効果が違うので注意!

家に帰るのが待ちどうしい感じだった。

 

翌日、学校は運動会だった。もちろん学校へ行った。

学校には1日も休みたくはなかった。この時は、自分には時間がもうないと思っていたから。今までと違う風になりたくなかったので自分から白血病だと言う事を言った。

もちろんクラスの人は先生や友達が口止めしていたらしいが。

みんなには迷惑をかけちゃったのかなぁ!けど私は言ってよかったと思っている。

新入生と誤解される。クラスの友達との第一声「俺、白血病になっちゃった!」みんな唖然・・・。

 

1回目の寛解と2回目の治療

 

9月中旬

退院して初めての外来。その時に入院の受付とともに、金子医師からプレゼントを貰う。紙を1枚。突然のマルク。心の準備が全然できず、信じられなかった。

この後、本当にやるのかよ〜ってな感じで。

「はい、プレゼントあげるよ。」と言って渡されたのが、骨髄穿刺の紙だった。正直、心で泣いた!

 

友達と帰宅中、車にぶつかる。

車の右ライトを壊し、自転車小破。

自分の運も捨てたモンじゃないな!

と思う。

 

2週間、自宅で過ごす。やっぱり飯は寿司だった。

生禁はある意味つらい。バイトの先輩がケーキをたくさん買ってきたんだけど、

生禁だったので、食べられなかった。冷蔵庫にも入らないし、捨てるのはもったいない。

最終的には、夜勤の看護婦さんのおなかの中!まぁそれも良かったのかも知れない。

本当は、看護婦さんや医師には物をあげてはいけないんだけど。

入院中はなま物禁止なので、たらふく食べた。

10月前半

2回目の治療が始まる。IVHと骨髄穿刺と腰椎穿刺の3セットをやる。

これを私は、地獄の3セットと呼んでいた。入院の時と退院の時、そして寛解の時には

マルクとルンバ―ルをやります。

以下骨髄穿刺をマルク、腰椎穿刺をルンバール

と呼びます。

 

抗がん剤(赤)を入れる。

死んだ血液は、尿として排泄されます。

なので、尿も赤くなるんです。

 

抗がん剤にも色々なモノがあり、人それぞれで効く効果というのも違います。

薬の量なども体重や身長、効き目によって決められるそうなので、サバは読まないほうがいいでしょう。

 

吐き気や嘔吐。尿の色の変化。

気持ち悪くなる。

10月

2週目

初めてクリーンルームに入る。

抵抗力が低くなるため、感染しないように、部屋に入った。

クリーンルームに入ったら、部屋の外には出られません。しかし、電話や水洗トイレ

があるので、便利でした。尿は流さず、別のところにためていました。

部屋の外には、赤松が見える。赤松が私の友達だった。クリーンルームには電話がついていた。

友達にかけまくった。

 

熱が出る。

血液のデータが500ぐらいまで下がるので、少しのほこりでも、熱が上がって

しまいます。

面会など少しの時間でも、消毒、殺菌して白衣で入ってくる。それでも熱が出でしまう。

 

姉がゲームボーイポケットを買ってくれた。マリオのピクロス2にハマる。

当時は自分でテレビを持っていったので、何時間見ても電気代しか取られませんでした。

なので、ゲームやテレビはたくさん見ました。ちょうどその時、「ガンには抗がん剤が効かない」て本が話題になって、がんセンターで見たのでひいたのを覚えています。

暇つぶしにSFCのゲームをやっていた。

部屋から出られないので少しさびしい。

10月後半

個室にうつる。看護婦さんがいる時は、きわめて明るく勤めた。

一人の時は、妙にさびしくなった。家に電話を毎日していました。テレホンカードが

ある時は、1枚で友達とよく話していたのを覚えています。

佐久間氏、山田氏、三森氏、私の雑談を聞いてくれてありがとうございます。

夜、隣から泣き声が聞こえる。

私もああなる時があるのか〜と思いつつ就寝。

 

主治医とこれからの治療が話される。化学療法では厳しいので、早いうちに

骨髄移植をやる事を言われる。

先生は「化学療法で治る人は1人いるかいないかなんです」っていたのを覚えています。

これで何となく、化学療法では治らないんだなぁ〜って思いました。

「君と白血病」を読んでいたので、何を言っているのかが理解できた。

両親と一緒に相談。

 

1時退院を許される。もし、大丈夫であるなら退院できる事になっているの。

3日間、IVHが入ったまま帰宅。

もちろん薬も続いている。

11月前半

文化祭で映画らしきものを撮っていた。学校へ父と一緒に行く。

さすがに一人で自転車に乗っていく事は出来ません。(やれば出来たと思うけど)

コケたらきっと、ぽっきり折れちゃうでしょう。

友達に会いに行った。

やっぱり和む!

 

マルクとルンバールをやる。

だいぶ慣れた。

 

IVHを抜き、退院が許される。

2回目の治療が終わった。

 

2回目の寛解そしてHLA検査

 

11月初旬

退院した次の日から高校に登校。授業がさっぱりわからない。

1日、寝坊をして起きられない日があった。母は、起こさなくてもいいだろうって

起こさなかったけど、私は激怒しました。自分にとって、1日でも無駄にしたく

なかったから。母の方が正しかったのに、あの時は怒りだけで、後はなにも考える

余裕がなかったと思います。

このときの感覚は、1日でも、惜しかった。シャバの空気はやっぱりうまい!

 

HLA検査を家族6人やった。小児慢性疾患保険が利きません。一人2万円

HLA検査で誰か合わないと、骨髄移植は出来ません。

合わないときは、骨髄バンクに登録するしかないでしょう。骨髄バンクも保険が

利かないので、このHLA検査はとても大事な検査になります。 

HLA検査で白血球の形が同じかどうかを調べます。兄弟は4分のT 両親なら10分の1だったかな?後ほど説明します。

 

スキー林間の時期。この時、母は無理の1点張りだった。

この時言ってしまったのが、「俺には時間がないんだ!」

母には本当に、精神的、肉体的にも苦労させてしまいました。

この場を借りて、ごめんなさい!

 

この時は行かないと思っていた。

だけど日が迫ってくるにつれ、行きたくなる。

母との口論のあと、金子医師の判断に任せる。

コケたらダメだよ。という条件でスキー林間

3日ぐらい前に行く事になった。

とてもうれしかった。

11月中旬

スキー林間に出発。新幹線で行く。

見学なんてこれっぽちも思ってなかった。

 

2日目、バリバリ滑りまくった。もちろん転んだりしたけれど、

本当に楽しかった。許してくれた両親に感謝!

スキーのインストラクターにまで、白血病である事をいった。

何より、白血病になってしまった事は恥じゃないと思っていたし

自分自身の気持ちまで、私は病気だって思ってしまったら、マイナスの事しか

考えられなくなってしまうんです。周りの人の理解があって、隠すという行為を

やめてしまえば、白血病だって元気になんでも出来るんです。

この時は本当に生きたって思えるほど楽しい思い出になりました。

白血病との戦いそれは、「自分との戦い」でもあると思います。

いつもはバンダナをしているんだけど、悪乗りで、みんなでガンつけて写真をとる時、バンダナをとってしまいました。その後、学校で写真を見ていると「うぉっ誰だよ、ヤクザが写ってるよぉ!」て言うもんだから、どれどれと見てみると私でした。(笑)いつもバンダナか帽子だったから。

 

麻雀を覚える。4人麻雀で朝2時頃までジャラジャラと。

 

賭け麻雀はダメです。いけません、役満狙いが男でしょう!なんて、この時はうる覚えでした。

 

HLA検査の結果が出る。姉が一致したとの報告。姉1人と兄貴2人私が1番した。

この時は、HLA検査の事はまったく考えていなかった。

後になって、自分は幸運なんだなぁ〜て思う。

長男と次男でHLAの型が一致との事なので、

兄が白血病になっても大丈夫って事なのか?

家の兄弟は運がいいんですね!

 

外来でマルクとルンバールをやる。

やったあと、午後に授業を受け帰宅する。

胸がジンジンする。このジンジンが1週間ぐらい続く。

 

この時は、前の日に宣告があったので、

心の準備が出来た。だけど、麻酔を刺すところまで、心臓バクバク!

 

学校で具合が悪くなる。

保健室で休む、保健室の先生がこれまた、優しかった。

理性があって良かった。って言うか、そうゆう

じょうたいじゃ〜なかったけど。

12月初旬

3回目の入院が決まる。

病院へ行く朝、山田うどんで食事するのがパターンになっていた。今食べると、この時の心境になる。

「これ食べたあとはマルクか〜。」って!

 

マルクとルンバール、IVHの3セットが始まる。だいぶ慣れた。

最初のマルクは1日動けなかったけど、2回目・3回目となるうちに30分ぐらいで歩けるぐらいになった。でもルンバールは絶対安静3時間だけど。

 

3回目の入院

 

12月初旬

とうとう3回目の治療が始まった。

抗がん剤(青)いれた。

抗がん剤の中では、青が一番きつかったような気がします。出るものが青だからなぁ〜。

トイレの臭いがなんか変だったのを覚えている。

ファンキゾンと言う、腸をきれいにする薬(だったかなぁ)が強烈にまずい。

3回目になり、ようやく飲むコツを掴む。

入れた後、看護婦さんが「尿が緑っぽくなるけど気にしないで。」言ってたんだけど、出してみると無茶苦茶、青じゃんってビビっていました。青い尿を出すなんて、本当に貴重な体験だ!

 

嘔吐する時の感覚を覚えた。大抵、吐く前には何となくわかる様になった。

唾が水みたいになり、ゴクゴク飲むような感じになると、もう吐いたほうが楽になる。

吐くときは、何か飲んだ方がいい。何も飲まず食わずだと胃液のすっぱいのだけだから

かなり辛くなるので。

吐いたあとは、うがいをしましょう。

口の中に胃酸が残っているので、歯が黄色くなったり、歯が溶けちゃったりするので。

 

担当看護婦の岩村さんに足を洗ってもらう。とても気持ちいい。

看護婦さんも大変だなぁ〜なんて思います。

 1度、シャワーの順番になった時、「背中流そうか?」なんて言ってくるものだから

「お願いします!」って違う想像をしちゃって、看護婦さんってそこまでするの?

と考えながら、着替えをしてタオル1枚になると岩村さんがきてドキドキしていると

エプロンを手に取り、さぁ、洗おうか!って。

 あぁ、そうゆう事ね、ってがっかりしたことがあります。

(俺って一体なにを考えているんだか<笑>)

私には担当医の、金子先生と佐竹先生と

担当の看護婦さんの岩村さんの3人が色々な面で、助けられたし、3病棟の看護婦さんも

みんな優しかったので、良かったです。この場を借りて、深く御礼申し上げます。

12月中旬

クリーンルームへ入る。

愛しの赤松と再会。(暗っ!)

クリーンルームはとても綺麗な個室って感じなので、すごし易かったです。(電話もあったし)看護婦さんに、スキーに行ったことを自慢!

 

熱が下がらない。

食欲もなくなる。

この時は何も食べ物が口に通らなかったので

サクマドロップを1日中舐めていました。

 

佐竹先生がアメリカに行く事になる。お別れ会をやった。

この時に、特別にクリーンルームを出ました。

岩村さんがきてくれた。やっぱりうれしい。

生禁なので、団子が食べれなかった。

ありったけの団子をもらう。

12月24日

クリーンルームにサンタクロースに化けた先生がきた。

 

こうゆうイベントが院内にあるというのは、

なんかいい感じ。久しぶりに部屋の外に出た。

 

クリーンルームを出る。

院内だけど、部屋から出れたので

開放感があった。

朝5時起床、6時に検温、7時に朝食

8時に採血、先生がきて、10時にはお風呂やシャワー。出るとガーゼ交換、12時には昼飯

午後は検査とかある日は検査。ない日は、1時間に1回のうがいと日に3回ぐらいのネブライザー。夜は家や友達に電話して1日が終わっていました。

12月終わり

正月ぐらいは家で過ごしたいと希望。外泊許可を3日とる。

色々と先生には、贅沢を言っていました。

1月T日

12時を過ぎ、近くの神社にお参りに行く。

毎年、破魔矢をもらいにっているので今年も逃せないと気張りずつ

お願いはやっぱり、「治りますように」でした。

お参りの途中、佐久間氏に出会う。話しているうちに意気投合!家に書置きを残し、佐久間氏の家で「ぷよぷよ」を一晩やり明かす。(点滴が入っている状態)初日の出を見て、願掛け!

こっそりと家へ帰る。

 

やっぱり家は落ち着く。布団もふかふかで、何だか新しい臭いがした。

ここが私の居場所だなぁなんて考えました。

やっぱりこの日は寿司でしょう。生禁のうさばらしです

たまったジャンプとサンデーを読みあさる。

2日間読みまくった。

 

マルクとルンバールをやる。もう慣れた。

佐竹先生がアメリカへ行ってしまったので、マルクは、金子医師がやる事になった。佐竹先生は

女性だったので、針を押すのが恐くわなかったんだけど、金子医師は腕っ節、強そ〜だったから

正直、不安でした。あんまり変わんなかったけど。

 

 

肩からのIVHを抜き、3回目の

治療も無事終わる。

 

 

3回目の寛解そして骨髄移植準備

 

1月初旬

退院して次の日、学校へ行く。

外の感覚を堪能する。

麻雀をやる事が多かった。

1月下旬

外来でマルクとルンバールをやる。その後、学校へ通う。

この日は、病院へ行ってから学校へ行った。私は勉強好きではないので、友達に会いに行くのが目的でした。

 

3日に1日のペースで病院に通っていました。

今思うと、けっこうなペースで外来に言っていたんだぁな〜って思います。

2月2日

誕生日を迎えた。

生きて誕生日を迎える事に、よろこびを感じるとともに、不安にもなった。この時17歳

2月中旬

入院日が決まる。

とうとう来たか〜って思いました。

 

入院する前の日、「めぞん一刻」

を一晩かけて見た。

この時よく見ていたのが、「めぞん一刻」面白すぎます。

私は、ハマりました。

 

4回目の入院!

この入院で骨髄移植をすることになった。

マルク、ルンバール、IVの3セットをやりました。IVが違う所に入っちゃって、レントゲンを見ながら入れる事に。

IV入れまくったので、胸の静脈がごちゃごちゃで入りにくくなっていると言われました。

2月21日

 

骨髄移植の準備表を渡される。

 

移植するにあたり、細菌や感染などに無防備になるので、体の中を綺麗にする作業と自分の骨髄を何倍もある抗がん剤と放射線によって、壊す作業を、1週間かけてやります。

2月22日

次の日、膀胱環流(ぼうこうかんりゅう)をやる。

入れられる気分がわかった。(笑)

看護婦さんに「何ですか?」と聞くと、「その名のとうりだよ」といわれた。何だかヤバそ〜と思った。

 

起き上がれない。腹部が痛い。

膀胱の中を1時間に1本の点滴で常に流される。お腹が張っている感覚が常にあった。

2月23日

ようやく起き上がれた。

しかし、慣れとは恐い・・・。

2月24日

ようやく外れた。なんだかすっきりとする。

膀胱環流の間は、部屋から出られないので、やっぱり廊下に出れるだけでも良いもんです。

2月25日

抗がん剤を入れ始めた。

赤と白の抗がん剤だったかな?

詳しくは覚えていませんが、結構入ったと思います。

2月26日

この日も抗がん剤を入れた。

明日から放射線が始まるが、ドナーが

事故、移植を一時中断。

 

岩村さんに、「事故っちゃいましたね。」

って言ったら、「泣きたいときは、泣いても良いんだよ。」って返ってきました。

看護婦さんは患者さんの事よく見ているんだな〜って思いました。

この日の夜、母宛に電話がなる。

凄く嫌な予感がしたのは今でも良く覚えている。案の定、ドナーである姉が、バイクで帰宅中、事故に巻き込まれる。

この時は、姉の事が心配だった。移植どうこうよりも。この想いは誓っても良いですが、

母は朝一で運ばれた病院へ行きました。

 

この夜は泣いちゃいましたね、これまでの治療とかを思い出して。

2月27日

姉が朝食を嘔吐する。どうやら脾臓が破裂しているらしいとの事。

緊急手術、脾臓を摘出する。

 

手術成功。

ちゃんと、夜でも検査はしてほしかったです。

危うく、命を落とす所でした。

母方のおじいちゃんが亡くなってか、間もないので、正直、もう亡くなる人は見たくないな〜って思いました。

2月28日

無菌室に入る。

データが0になってしまったので無菌室に入る。出来る限り、早く移植をしなくてはいけないため、骨髄移植は継続される事になる。

 

骨髄移植

 

3月1日

無菌室から放射線治療をうけに、地下1Fまで

降りる。放射線治療をうけるときは、少し長いので音楽を持っていってもいいので、友達に作ってもらったテープを持っていきました。

帰りには震えが止まらず、熱も40度以上、

急激に上がってしまい。まさにダルマ状態!

アンカー3つに掛け布団3枚でも全然震えが止まらなかったのを覚えています。

私は声優とかアニメの主題歌とかが好きで、寛解中にテープを作ってもらっていました。

放射線治療中、そのテープを持っていったわけだけど台に乗るときに中身の事を思い出して、(遊びで1曲目にムーンライト伝説を入れていた事)やべぇ、と思ったときにはときすでに遅し、あれは拷問でした。(笑)

3月

次の日も放射線治療をうけに、下に降りる。

当初は抗がん剤を入れた後、放射線を1日2回を2日でやるはずだったのですが、トラブルで無菌室から1日2回の所を1回で当て(計1時間)それを2日やりました。

前日の失敗はもうしませんでした。

この日も帰りには震えが止まらなくなっちゃって、熱も跳ね上がるし結構疲れました。

姉が、がんセンターに転院。輸血を受けてしまったため、時間が切羽詰っていました。

 

ファイナル ファンタジー7を12時頃までやった。最初のチョコボで渡るところで出てくる蛇みたいな奴を倒すために!

隣の部屋に入っている人に激励される。

エアリスをこれほどか〜ってほど鍛えたのに

途中のイベントで上からセフィロスが降ってきた瞬間、えっ!マジか〜てなもんで、

悲劇のヒロインになっちまいました。

この時は、ちがう意味で泣きました。

3月7日頃

骨髄移植。

姉の骨髄液を採取し、私に移植しました。

移植といっても、輸血みたいに流れてくるので

患者さんは痛くはありません。

3月中旬

鼻血が出る。のどに流れてくる血を

ゴクゴクのんでいる内に、気持ち悪くなり

吐血する。紙コップ2杯。その後鼻に止血剤を

つめる。喉がやられて、声が出せなくなった。

この日から、痛み止めの点滴、ビタミン

薬、など色々な薬が入る。

この時から、ゲームをやる気力がなくなる。

コーラーが水のように感じる。

 

薬やうがい、食事など食べられなくなる。

1ヶ月ほど眠りに入る。

1日で、おきた回数が2回だった

ふ〜とをあけるとウゴウゴルーガがやっていて、目を閉じて、また、目をあけると5時ぐらいにやっている、ドラゴンボールがやっている。、また目を閉じると1日が終わっている状態!

4月中旬

自分の力じゃ立てないくらいに、衰弱していた。吐血の時から食事はとっていなかったので。ようやく無菌室から出る事になった。

個室に移る。(初めて車椅子を使った。)

地球の重力を感じた。自分の背中にこなきじじいがのっかているんじゃないかって思うくらいに

体力が落ちていた。

 

ジュースのタブやペットボトルのふたが

鬼のように固く思える。

痛み止めの量を減らし始める。

歩く事すら、ままならない。

普段気にしていなくても出来た事が、出来なくなったときはじめて、その有り難味がわかるんだな〜って思いました。

 

味覚が吹っ飛んでしまったので、

調子になってキムチを食いまくる。

最初は全然、味がしなかった物が食べまくっていたせいで、辛さが敏感になってしまった。

バランスよく食べましょう。

今でも、辛いものは敏感なままです。

甘さも少し鈍く感じられます。

 

無事、大部屋に移ることが出来た。

無菌室の中の事は、ほとんど覚えていませんでした。岩村さんと大久保さんが来てくれたことぐらいです。

5月初旬

最後のマルクとルンバールをやる。

これでマルクとは縁が切れそうだ。

金子先生が、「今回は痛くない方法でやるから安心して。」と言って、イソジンを塗り始める。

布を引いて、「1番楽しかった事を思い出してみな!」ととっさに言われ、「ス、スキー」て答えて

いる内に針を引かれ、「うっ」。

終わった時に「痛くなかったろ」と言い、去っていきました。 痛いに決まっているだろ〜!

 

IVが抜かれる。肩の荷が降りたように

肩が軽くなった。

2ヶ月ぶりで外に出られるので、わくわくしながら、退院の手続きをする。

5月のGW

退院

外の空気はうまい!

 

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